2013年8月10日の戯言(分かって貰えるだろうでは駄目。)



言おうとしているコトは同じでも話し方で相手の気分を慨したり、やわらげたりするというたとえ。

 コミュニケーションとは“分かってくれるだろう”、“理解してくれるだろう”では駄目だと分かっていますが、これがなかなか難しいものです。

 逆に、メールやホームページでは意図する事柄が“文章表現で誤解される”というコトもありますが、商品やサービス、会社と繋がる人々とホントに“表現”というのは考えさせられます。

 多くの人は、悪気は無いのに“言葉”や“文章表現”で知らない間に人を傷つけてしまっている等、人間関係で悩まれているのではないでしょうか?

 先読みしてくよくよと考えても仕方ない部分もあり、その都度、人とぶつかりながら信頼関係を築き上げていくものなのかも知れません。

 そう考えると“言葉”というものは“未完成”なコミュニティーツールなんだと思います。

 心から正しく分かり合うには“ニュアンス”や“感情”を“テレパシー”で伝えるか、いくつかの映画で表現されているように種全体がひとつの“思念体”にでもならない限り不可能なんでしょう・・・って、これでは生きてる感じがしないですね。

 ちなみに僕は“自分”にも厳しい分、まわりの人にも厳しく、更に“言葉足りず”な人間のため、随分と人の気分を慨してしまうコトが多いだろうと理解していますし、直したいと日々思っています。

 もちろん自分を全て否定している訳ではなく、この性格だから“リスクヘッジ”や“企画(提案)”等のビジネスに活かせているという良い点も認識しているつもりです。

 それても、時々“何でこんな言い方しか出来ないかな”と一人で反省してしまうのですが・・・。

 ホントに、コミュニケーション能力に長けている方は羨ましいです。多分、それだけで“コネ”や“財産”、“才能”に匹敵する強みをもってあるのだと思います。

 長所と短所は表裏一体とはよく言いますが、その振れ幅は同じだとは言ってません。

 例えば、仕事の面では“効率”を極めるコトがプラスに働いても、プライベートではマイナスになっている場合もあるはずですが、人生でどちらに重きを置いているかで“幸福感”は変わってくるのでしょう。

 感謝は伝えなければ相手には分からないもので、気付いて欲しいでは駄目です。

 “ありがとう”を言葉に出しているつもりでも、案外と言葉に出している回数は少ないもの・・・僕もいつか自然に言える人間になりたいものですが、いったい何時になるコトやら。

 いやはや。。